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ベストアンサーに選ばれた回答

 

結論から言えば、任那という地域は日本の影響下にありました。
ただ、日本府という役所が在って、日本が完全に支配していたとまでは言えるかどうか微妙です。

任那が日本の影響下にあった根拠は沢山有ります。

まず、日本は何度も朝鮮半島に軍隊を派遣していた事実。
これは『日本書紀』にも見えますし、考古資料でも高句麗好太王碑文によって明白です。
特に。『日本書紀』にきちんと書かれていることが他国の考古資料と合致するのは重要です。

次に、新羅が後に半島を統一した後に、日本より下位とされた事実。
中国で起きた事件です。遣唐使で派遣された日本使節が、新羅の使節より下位に並ぶよう指示され、
これに反論したという事件ですが、結局はこの抗議が通り、日本使節は新羅使節より上位になります。
この時の根拠として、新羅が古来より日本に貢物を送っていた事実が提示されたのですが、
このような外交の場での遣り取りから、日本が朝鮮半島に対して軍事・政治的に優位だったのは明白です。

考古学の研究成果から、古墳の形状を見ても分ります。
すでにこれは前の回答者さんが述べていますから繰り返しません。
他にも、朝鮮半島でも任那はもちろん、日本へ朝貢していた新羅・百済から日本産の翡翠が出土したり、
考古学上の発見は、ほぼその全てが朝鮮半島に影響力を有する日本の姿を浮き彫りにします。
忘れてはならないのは、考古学上の発見が『日本書紀』を裏付けている例の多い事です。
これは日韓の研究者にとっては意外な現実でしたが、現実ではあるのです。

さらに。
『日本書紀』によると、任那四県を百済に割譲した問題で、大連・大伴金村が失脚したりしています。
こういった事は基本的に嘘が書けません。大伴氏は『日本書紀』を編纂した天武朝の重臣です。
その大伴氏が、自分の先祖の不始末を隠すならまだしも、空想で書かれたりしたら確実に怒ります。
つまり。任那の四地域の“領有権”を当時の日本は有しており、これを百済に譲る事が出来たのです。


・・・かくも各種資料で確実な「任那」が教科書から消えつつあるのは、なぜかと言うと、韓国への配慮です。
既に何人もの回答者さんが述べているように、韓国的には我慢ならないのです。古代から日本の支配下にあった事実が。
好太王碑文についても、朝鮮人学者は捏造だと主張していました。これは中国の研究者の鑑定で本物と確定しました。
最近は任那の事を任那中の一地域名に過ぎない「金官」と呼んだり「加羅」と呼んだり「伽耶諸国」と呼ぶ、
およそ歯切れの悪い表現で誤魔化しています。これらの諸地域を総合して「任那」と呼ぶのが史料的には正しいのに、
それを書くと政治的にあれですから、わざとボカして書いているという事です。無論、韓国では「任那」の事など教えません。


あと。
回答者さんの中にも見えるように、
この問題で必ず出てくるのが大陸の騎馬民族による日本征服説です。
この説は既に完全に否定されているのですが、ロマンがあるせいで、しはしば復活してはまた消えていきます。
高句麗好太王碑文や『日本書紀』にも見えるように、半島へ攻め込んでいるのは倭国であって、逆じゃない。
これは古墳の副葬品からも分ります。副葬品に馬具などが入るのは大和地方が先で、九州は後です。
もしも、騎馬民族が攻め込んできたなら、九州の古墳に馬具が入り、徐々に大和の古墳に波及します。
それが逆と言う事は、騎馬民族が日本を征服したという可能性が皆無に近いことを意味します。

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