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日本の属国であった新羅と百済
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広開土王陵碑
広開土王碑(こうかいどおうひ)は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために息子の長寿王によって414年旧暦9月29日(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉)に建てられた石碑で、広開土王碑は現在吉林省集安市の好太王陵の近くに位置しています。
この碑に、新羅と百済は、倭国の属国となった経緯が記されています。 それは,以下のようなものです。
もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。 」
「
広開土王碑は、高さは約6.3メートル、幅約1.512メートルの四角い石柱で、その四面に推定総
数1,802字の碑文が刻まれていて、下記の黄色の文字の部分に、その事が書かれています。
惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降出生子有聖■■■■■■命駕
巡車南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王爲我連浮龜應聲即爲
連浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉永楽世位因遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄
龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業■至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王
二九登祚號爲永楽太王恩澤■皇天威武柳被四海掃除■■庶寧其業國富民殷五豊熟昊天不
弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以永後世焉其■曰
永楽五年歳在乙未王以碑麗■息■■躬率往討富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百當牛馬群
羊不可稱數於是旋駕因過平道東來■■力城北豊五遊観土境田而還百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民以六年丙申王躬率水軍討科(=百?)残國軍■■
首攻取壹八城臼模盧城模盧城幹弓利■■■城閣彌城牟盧城彌沙城■■蔦城阿旦城古利城■
利城■彌城奥利城勾牟城古模羅城頁■■■■■分而能羅■場城■■城■■城豆奴城沸■■
黄色文字部分をさらに分かりやすく解説すると、
百残(百済)新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残(百済)■■(加羅?)■羅(新羅?)以爲臣民
[ 訳 ]
百残(百済)・新羅は舊(もと)これ屬民なり。由來朝貢す。而(しか)るに倭は辛卯の年を以って渡海して來り百残(百済)・■■(加羅?)・■羅(新羅?)を破り以って臣民と爲す。
とあり、動かぬ証拠であります。
また、百済王(近肖古王在位346~374)・世子(近仇首王375~383)から倭王に献上された「七支刀」(泰和4年369年造)の存在、

国宝 七支刀 奈良県天理市にある石上神宮(元物部氏の武器庫)所蔵
さらに百済最後の義慈王(在位:641年 - 660年)の王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)は、日本と百済の同盟を担保する人質で、「三国史記」百済本紀には義慈王13年(653年)倭国と通好すとあるので、この頃に日本に来たと思われますが、いずれにせよ百済王の子供を人質にとっている訳ですから、広開土王陵碑にもあるように、日本側が支配していたと考えられます。
しかしながら、日本側も決して扶余豊璋を人質とはいえ、粗末には扱っておらず、太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いで、決して悪いものではありませんでした。
660年(斉明天皇6年)、新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡。
唐は百済の旧領を郡県支配の下に置くものの、すぐに百済遺民による反抗運動が起き、済の遺臣は、鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請します。
この同盟国である百済の要請を受け、立ち上がったのが中大兄皇子(後の天智天皇)で、これが白村江の戦いです。 倭軍は661年5月に出発し、倭国の倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功します。
倭国の兵団が、難波から九州へ向かう途中、伊予の熟田津(にぎたつ)[現在の愛媛県松山市]で、額田王(ぬかたのおおきみ)が読んのが、万葉集に収められている、有名な熟田津の歌です。
「 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」
[ 訳 ]
熟田津に出動の時を待っていたが、明るい月も出た。
潮の加減も申し分ない。 さあ、全船団よ、今こそ漕ぎ出せ。
額田王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/846.html
しかしながら、唐も増援の劉仁軌率いる水軍7000名を派遣。 倭国・百済にとって、百済王の太子豊璋王を擁立し、百済復興が戦いの目的であったにも関わらず、豊璋は高句麗へ逃亡。
この戦いのアイデンティティを失った倭国・百済軍は、唐・新羅軍に対し、雪崩を打つかのごとく総崩れとなり大敗。 豊璋は捕らえられ、唐の都に連行された後、嶺南(中国南部)地方に流刑。
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国し、ここに多くの百済人が日本に住み着くことになりました。
中大兄皇子は、白村江の戦いで大敗を喫した後、天智6年(667年)に大津(滋賀県)に遷都し、そこで天智天皇として、天智7年668年に即位。
これが正式に認められている確固たる歴史的事実で、百済人が日本にやってきて、日本人を征服したのではありません。
任那日本府は、古代、朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあったとされる倭国の統治機関であった事、また我々が朝鮮語を喋っていない事実からも、

古代日本が朝鮮に支配されていたという説を唱える人は、よほど頭が悪いか、洞察力がないとしか言いようがありません。
支配していたのは、上記事実からも、日本側なのであります。 だいたいにして、戦争で勝った側が上から下まで、負けた側の言葉を勉強して、それを母国語にするなど、ジョークとしか言いようがありません。 そのくらいの事、すぐに頭がまわらないのか、というものです。
小沢君と同じくらい アホネ!
反日国家の工作にまんまとはまり、日本国民に不利益をもたらす、こんなお馬鹿な三流政治家を当選させてたら、日本もチベットのようになってしまいますよ~。
潮の加減も申し分ない。 さあ、全船団よ、今こそ漕ぎ出せ。
額田王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/846.html
しかしながら、唐も増援の劉仁軌率いる水軍7000名を派遣。 倭国・百済にとって、百済王の太子豊璋王を擁立し、百済復興が戦いの目的であったにも関わらず、豊璋は高句麗へ逃亡。
この戦いのアイデンティティを失った倭国・百済軍は、唐・新羅軍に対し、雪崩を打つかのごとく総崩れとなり大敗。 豊璋は捕らえられ、唐の都に連行された後、嶺南(中国南部)地方に流刑。
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国し、ここに多くの百済人が日本に住み着くことになりました。
中大兄皇子は、白村江の戦いで大敗を喫した後、天智6年(667年)に大津(滋賀県)に遷都し、そこで天智天皇として、天智7年668年に即位。
これが正式に認められている確固たる歴史的事実で、百済人が日本にやってきて、日本人を征服したのではありません。
任那日本府は、古代、朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあったとされる倭国の統治機関であった事、また我々が朝鮮語を喋っていない事実からも、

古代日本が朝鮮に支配されていたという説を唱える人は、よほど頭が悪いか、洞察力がないとしか言いようがありません。
支配していたのは、上記事実からも、日本側なのであります。 だいたいにして、戦争で勝った側が上から下まで、負けた側の言葉を勉強して、それを母国語にするなど、ジョークとしか言いようがありません。 そのくらいの事、すぐに頭がまわらないのか、というものです。
小沢君と同じくらい アホネ!
反日国家の工作にまんまとはまり、日本国民に不利益をもたらす、こんなお馬鹿な三流政治家を当選させてたら、日本もチベットのようになってしまいますよ~。
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